トルストイから学ぶ夫婦関係の精神的乖離
2016年8月21日日曜日 トルストイ
トルストイは実際に身の回りにあった話を題材にして小説を書いているわけですが、なかにはあまりにも身近な人を取り上げているために彼が存命中は発表できないものもいくつかあったようです。さてトルストイの小説「クロイツェル・ソナタ」のレビューを続けますが、男は彼女を「運命の人」と思い、結婚を前提とした付き合いを始めました。その時には彼女を「完成の極地」と思い込んでいたし、自分自身をもそのように思い込んでいたわけです。自分の結婚は別に財産目当てとも違うし、自分で結婚後は一夫一婦を続けようと固く心がけ、まるで自分が天使のように思っていたというのです。
ところがその結婚までの期間というのは、愛は肉体的なものではなく精神的なものとして理解していたのですが、実際に精神的交流の中にそのような深い交わりを持つ事が大変難しかったというのです。
結婚までは肉体的な交わりを控え精神的な深い交わりに努めようと思っていても実際には必要な事柄を話し終わってしまうとなにも話すことがなくなってしまうというのです。
実は恋愛感情の高まりから自分たちを聖なるものとでも錯覚して「愛は精神的なもの」として思い込んでいたのですが、実はその愛は錯覚であり、その行き着く先は肉欲にしか過ぎなかったとその男はいいたいわけです。
そしていよいよ結婚式が終わり、ハネムーンに出発します。結婚後は禁欲の必要はなくなり、それを美しく作り上げようとしても、結果は退屈なだけでした。そればかりか苦痛になり始めたのです。三日か四日ほどたって妻が寂しそうにしているのに気づいて理由をあれこれと男は尋ね、夫婦関係を求めると彼女は手を払いのけ、泣きはじめたのです。
彼女は自分の気持ちを言い表すことができず、母親と離れているので寂しいというようなことを言い始めました。男はそれが嘘のような気がしてその母親の事を無視して妻を説得しようとしたのです。彼女は自分の事を信じないようなそぶりをされたことに気を悪くし、あなたが私を愛していないことがよくわかった、と言い出します。
男が妻のわがままをなじると、彼女の顔つきが変わり、毒のある言葉で男のエゴイズムや薄情さを責め始めたのです。全くの冷淡さと憎悪の表情を見ながら男はゾッとします。愛とは二つの魂の結合ではなかったのか?そしてお互いに毒々しい敵意の言葉をぶつけ始めてしまったのです。
男の言葉を引用します。
わたしは夫婦喧嘩とよびましたけれど、あれは喧嘩ではなく、現実にわたしたちの間に存在した溝が暴露されたにすぎないのです。性における欲望が充たされたことによって恋心が薄れ、お互いの本当の関係の中に面と向かい合って取り残されただけですよ、つまり、互いに相手を通じてできるだけ多くの楽しみを得ようと望んでいる、まったく他人同士の2人のエゴイストがね。わたしは夫婦の間に生じたことを、喧嘩とよびました。しかし、あれは喧嘩ではなく、欲望が病んだ結果あらわれたお互いの本当の関係にすぎなかったのです。わたしはこの敵意にみちた冷たい関係が2人の正常な関係であることを理解していませんでした。それを理解できなかったのも、最初のうちはこの敵対的な関係が、ふたたびもやもやと立ちこめた性欲によって、つまり恋情によって、すぐに覆い隠されてしまったからなのです。(トルストイ新潮世界文学)
イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)
恋愛というもの、実は精神的なものでなく、肉体的な関係によって成り立っているのでは?というトルストイの見解です。そしてその欲望が一方的に充たされてしまうと、そこに恨みが残り、今度はお互いが憎みあう関係になってしまう・・・ 友達間で喧嘩する喧嘩と夫婦の間で行われる喧嘩の内容を比較すると夫婦の喧嘩というものが「喧嘩」と呼ぶには相応しくないほど敵対心に満ち毒々しいものになってしまうのはそこにある、というわけです。 私は女側からどのように感じているのかはわかりませんが、男側から見るとよく男の言いたいことがよくわかります。
一般的な夫婦関係においても、これは大変難しい問題で、双方がしっかりとオープンになって話し合い、理解を深めないと夫婦間が難しくなる大きな原因となりますよね。そして本当に精神的にお互いを深めあう、高めあう関係なのか、それをしっかりと見定めることが大切だと思います。そこをあいまいにしたままだと、一方的に肉体的な欲求が充たされるとともにつまらない関係に成り下がってしまう可能性があると思います。
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