男女の出会いをトルストイを用いて考えてみる
トルストイ「クロイツェル・ソナタ」久しぶりに読んで見るといやはや、全く「すごい」(笑)。もうのっけから人類の恋愛批判で埋め尽くされています。よくもまあこれだけ恋愛・結婚を批判し続ける事ができるもんです。
さて話を続けますが、自分の妻を殺害してしまった男は列車で乗り合わせた「私」に、どうしてこうなってしまったかを話し始めました。
男は先回のように社会の矛盾を批判した後、いかにして自分が妻と出会ったかを話します。
様々な女遍歴を繰り返しながらも裕福な出の男は高潔で清らかな家庭を築こうと、それに相応しい娘を「物色」していたのでした。
しかし、ついに長年求め続けていた女との出会いがやってきました。そして彼女と月明かりの夜にボート遊びをしたわけですが、彼女のぴったりとセーターに包まれ均整の取れた身体やカールした髪に見とれているうちに突然男は彼女そうだと思ったのです。彼女はまるで男の全てを理解してくれているように見えたというのです。
以下は男の言葉からの引用です。
ふしぎなことに、美は善であるという完全な幻想が、往々にして存在するものです。美しい女が愚劣なことを言った場合、それをきいても愚かさは見ずに、聡明さを見るのです。その女が醜悪なことを言ったり、したりしても、何か愛すべきことのように思うのです。女が愚かなことも醜悪なことも口にせず、しかも美人だったりしようものなら、すぐさま、奇蹟のように聡明で貞淑な女だと信じ込んでしまうものですよ。
男は次の日に娘にプロポーズしてしまいます。ロマンティックな雰囲気の中で彼女のセクシーさに彼は参ってしまい錯覚を起こしてしまったわけです。(こんなことに二十回に一回あるかないか、というほど事がトントンと進んでしまったのです)
これは男的観点からの「出会い」です。これは以前「愛といわれるものが醒める時」(7月17日)でも書きましたが、「ビビッ」と来る様な「出会い」の背景にはそれをお膳立てしてくれる何かがありませんか?
例えばある人との「出会い」を果たしたとしましょう。「ビビッ」と来たその背景には何らかのその人に対する「前知識」がありませんか? 前評判だとかその人の持っているいい背景だとか・・・あるいはその人がなにかしっかりした制服を着ていて非日常的でなにか「頼もしい」と感じられたとか・・・あるいは当人自体の中にある「出会い」を求める何らかの作り上げられた「イメージ」など。そしてそれらが積み重なって「ビビッ」を作り出したと考えられませんか?
本当に純粋な「出会い」というものがあるとするならば、「前知識」を抜きにしても起こりえるはず。例えばその人がなにかしら外見が汚かったように見えた状態や評判が悪いような状態で「ビビッ」が起こりえますか?
「幼馴染」など全くの相手を知り尽くしてロマンスなど起こり得ない状態の中で、あるときなぜか「ビビッ」と来てしまった・・・というのはより「出会い」らしいと私は思ってしまいます。
そしてロマンティックなイメージが頭の中に起こってしまうと、脳内麻薬のせいですべてが「最高」に解釈されてしまうことが起こります。
まだまだトルストイの社会的な批判が続きます。
今度は男中心主義社会×→女中心主義社会○
当時の小説家・批評家達の中にはこの小説をトルストイの数ある名作のなかでも最もすぐれている、と評した人もいるくらいです。中には「その通り!」「ばかな!」としか叫べなかった(笑)という人も・・・
さて・・・男は再び社会批判を続けます。次は女支配の社会について非難します。一般にはフェミニストが指摘するようにこの世は男支配の世界の傾向が強いと言えるわけですが、ところが女はその仕返しに男の性欲に働きかけそれを操っている・・・というわけです。
男女関係も男は形式的に選ぶだけで、実は女が選んでいるということなのです。政治・仕事などの実質的な面では男が強いわけですが、女は男女関係において男と対等になり選ばれるというよりも選ぶという立場に立ち男を選ぶという権利をもっていると彼は言います。そして男の性欲に働きかけこの社会を支配していると。
実際の社会を見てみると、商店街の商品などの大部分は女物で占められており多くの贅沢品は女によって要求され維持されているというのです。そしてそれを生産する工場も女のためにありそこに男の労働力はつぎ込まれていると・・・彼に言わせれば「女はまるで女王のように、人類の90パーセントを、奴隷と重労働のなかにとりこにしている」
――彼の言葉の引用です。
女は自分を、性欲を刺激する道具に仕立ててしまったため、男は冷静に女と応対することができなくなってしまったのです。女のそばに近づいただけで、男はその妖気にあたって、ぼうっとなってしまうのです。わたしは以前から、舞踏会のドレスを着飾った貴婦人を見ると、いつも気づまりな、薄気味悪い重いを味わっていたものですが、このごろではまったく恐ろしくて、それこそ何か世間にとって危険な、法に反するものを見るような気がして、警官をよびたくなるほどなんです。この危険に対する庇護を求め、危険物を早く片付け取り除くことを要求したくなるんです。
これは決して冗談じゃありませんよ。いずれ世の人々が、このことを理解して、現在われわれの社会で許されている、露骨に性欲を挑発するために肉体を飾り立てるような、こんな世間の平和を乱す行為の許されていた社会が、どうして存在しえたのだろうと・・・いったいどういうわけで、賭博が禁じられていながら、女たちが性欲を挑発する、売春婦のような服装をすることは禁止されないんでしょう?そのほうが千倍も危険なのに!
イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)
すごい極論ですが、純粋でありながら異性関係の故に自分を破滅させてしまった者の叫びの代弁なんでしょうねぇ。これは女の方にとって全くの言いがかりですが、心と裏腹に欲望に支配され翻弄される男がひねくれるとこのような言葉が飛びだしてしまうのでしょうか・・・これは彼の別の小説「悪魔」をセットにして読んでいただければ理解しやすいのかもしれません。現代社会はトルストイ当時よりも複雑になってしまい、このように単純に「性欲」で片付けられなくなっており、かならずしも該当しなくなっていると思いますが、それでも男の立場として性欲に翻弄される経験をよく思っていなければトルストイのこの言葉は「その通り!」「ばかな!」と思わず叫びたくなるのです(笑)
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