トルストイに学ぶ恋愛と結婚
トルストイの「クロイツェル・ソナタ」を紹介しましょう。
この「クロイツェル・ソナタ」や「悪魔」などはトルストイが実際に体験したことや身近で見聞きした出来事をモチーフに、男の視点からの「恋愛」「結婚」についての批判をしていますので、女側から見ると「そんなはずはない」と思われることもあるかもしれませんね。しかし、男がどのように「恋愛」と「結婚」に捉えてどんな心情を通過するかを知る、いわゆる「男研究」にはいい教材だと思います。
さて、「恋愛」「結婚」の末、自分の妻を嫉妬の故に殺害した男の話を続けます。
まず、彼は自分がこうなってしまった事の社会的背景に問題・矛盾があると指摘します。美しい「恋愛」の背後には男の欲望を充足させるための堕落した社会が存在しており、それにどっぷりつかり洗礼を受けてしまった男達がその行為を顧みず、美しい「恋愛」のため清らかな乙女を求めて社交場にやってくると言います。その現実をどれだけ知っているのかと。
この記述はストイックなキリスト教の視点から書かれているために、少々受け入れづらいと思われる方も多いことと思いますが、その本質を見てみると中々男にとっては痛いところをつかれていると思います。
思春期に入って来る頃から男は自分の沸きあがるどうしようもない欲望に翻弄されます。心と体のバランスがとりにくい状態であり、この欲望をどのように取り扱ったらいいのか、実は昔から今に至るまでそのガイドをしてくれるものがありません。あるとすれば・・・商業目的の男欲望充足中心の・・・・女が目を背けたくなる性産業となります。しかし、その背けたくなるようなモノが・・・・多くの男にとってなくてはならない「必要悪」になっているという現実があるのです。戦争には欠かさない売春宿の現実。それがなければ民間人に混乱をもたらしてしまう。自爆テロを喜んで行う男達の目指すところは・・・美女が待ち受けているハーレム・・・あ、これはちょっと話がずれたか。
そのような環境のなかで洗礼を受けた男達の目指すものは・・・清らかな乙女達。そう結婚相手には心身ともに清らかな女の方が・・・よい。
そんな清らかなものを求めるのに果たして自分がそれに見合う「清らかさ」を備えているんですか?洗礼を受けて育ってきたあなたにはそんな資格はないでしょう?とトルストイは男の口を通して語りかけてきます。「清らかな」というものは社会的な環境がそれを許さないので実はありえない(じつはそれは「欺瞞」だった)という極論になってしまいます。いきなりぶっとばしますな、トルストイさん。
イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)
ある宗教的な基準から見るとこうなってしまいます。しかし多くの女にとってはやはり「清らかな」恋愛・結婚を願うものでしょうし、次第に経験を積むことによってそれは実は違うのだということも理解されてくるのだと思います。また不幸な体験により男はみなこのようなものだと不信感に陥っておられる方もいるかもしれません。宗教的な見方というものはどうしても人を過去に縛り付けてしまうというネガティブな面がありますね。
それとも生物学的な観点から、所詮男という生き物は自らの欲望を満足させかつ種を残すために都合よくそのように考えるそのようなもの、として自らを納得させますか?
私は、あまり過去にとらわれず、人間は心の願う声にしたがって絶えず学び反省し「清らかな」方へ成長するものだということを信じていくしかないと思います。
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