恋愛の数と相性のいい相手と出会う確率は一致するか?

2016年5月15日日曜日 出会い 相性のいい

相性がいい人は恋愛も結婚も仕事も友人関係も、そのほとんどについて自分にとって利益となる人間です。
そのため、相性が良くないと知った上で恋愛したり結婚したりする人はいないはずです。

また、相性がいい人は事前に判別できないため、いいと思っていた相性が結婚してから悪いと判明して関係が崩壊してしまうケースは世の中の日常的に発生しています。つまり、性格の不一致による離婚は今日もどこかで誰かが行っている日常のアクションだと静観することができるのです。

そのせいか、自分にふさわしい人との出会いを持つことができるか?ということにもっとも多くの人々が関心を寄せています。それは相性判別の具体的手法です。ですが、これにははっきりしていないことが多く、今の時点では明確な解答をだすことができません。ここでは私があくまでも感じることとして取り扱ってみたいと思います。 いまのところはっきりしているのは、

  1. 出会いは運命などの要素があり予測がつきにくく、自分の力ではどうしようもない部分がある。
  2. 自分の相応する愛のレベルの相手との出会いというのが妥当であり、差がありすぎる相手との出会いは自力ではありえない。
  3. いい出会いのために自己精進などの努力をし、自己の愛のレベルを上げる必要がある。

ということになります。あと肉体的相性というものも考えられますがそれは機会があれば取り上げます。

ここではまず「出会ったときに何かを感じた」ということについて取り上げます。

最近あるテレビ番組で「気配」と何か?ということについて科学的側面で取り上げているのを見ました。最初に犬が遠いところから自分の主人が帰ってきたということを察知してドアのところにきて待ち始めるのはなぜか?という実験を行っていました。

犬は鼻も耳も人間より鋭いのだからそれは当然だということになりますが、どうやら鼻も耳でもわからないようにしてもなぜかちゃんとわかるのです。なにしろ主人がマンションの下の入り口のところにきはじめてからすぐに犬はわかるようなのです。

そこで今科学的に考えられているのが犬は主人の体から発している電磁波などの信号を感じて識別しているのではないかということになります。

犬が人間をそのように識別しているように人間にも人間・動物・物体から発する電磁波などの信号を識別できる能力があるのではないか、ということになります。そして「気配」とは空間の中に物理的に生じ残った電磁波を感じた結果ではないかというのがその結論でした。

だから「霊」(または生体エネルギー」というのは気のせいなんだということも言えるようですが、逆に電磁波などが「霊」(エネルギー)の窓口になっているかもという見方もできます

これは大変面白い話で、あまり科学者たちがあまり認めたくない波動理論(宇宙の波動により人間は影響を受けているというニューエイジ的理論、水関係のビジネスではおなじみ)に近い考え方です。

ということで、人はなんらかの出会いの際、相手から発するなんらかの物理的エネルギーを感じ取ることができる感性をもっており、それが時に「ビビッ」くる何かを与えるのかもしれません。


ただこれが運命的なものからくるかどうかについてはわかりません。その「ビビッ」で間違った人たちも多くいるわけですから。自分のレベルに応じてそれに相応する結果が多いというのが現実です。

今回は私の好きな物理の話でちょっと横道をそれた話になりましたが、つぎは焦点を絞って考えてみたいと思います。

恋愛をすると彼・彼女から「愛されれば愛されるほど不安になる」という感情が込みあがってくるという現象について考えてみたいと思います。とくに女性にこのケースが多いのではないでしょうか?



愛されれば愛されるほど、それに対して何かを返さなければならないという不安と焦りがわきあがります。

相手に対して何をしてあげたらいいのかがわからないという感情や、相手が「愛」という名のもとに見返りをもとめているという動機が伝わってくることに対してある種の暗黙の脅迫観念にとらわれてしまう場合などがあります。

見返りを求めているなら何をすれば相手をつなぎとめることができるだろうかという不安、あせり、苦しみ。 「愛」という名の下に「縛られた」状態になってしまったといえるでしょう。

そしてある時にはその不安と焦りを解消するために自らが相手の言いなりになってしまうケースも多いことでしょう。

相手が見返りを求めているということがわかった場合はほとんどの場合うまくいかないでしょう。最悪なケースにならないように気を配る必要があります。

自分が相手の関心を自分に引き付けて繋ぎ止めておきたいという、自己中心の動機が強すぎるために不安も大きくなります。「繋ぎ止める」という考えは全く捨て去ったほうがいいと思います。 

家庭環境の影響などもあって、私たちの中にはなかなか「与えよう」とする愛がでてきません。(自己中心的動機が強すぎどうしてもできないという方はケースはカウンセリング、ボランティアワークもしくはなんらかの宗教を持つことをおすすめします)

自分の置かれている状態を理解して、相手に対する関心を持ち、自分を制して日常生活のなかで「与え続ける」ことに関心を持つ生活をするということに集中すべきだと思います。そしてそれで相手が去るならば、しょせんその人はその程度の人だったんだとあきらめるべきです。「自分の人生は自分のもの」というしっかりした考えを持つことが必要だと思います。

自己中心的動機をもった相手に振り回されて自分の人生を無駄にしてませんか?
そして、自分を振り返ってみると、自分と出会ってきた人々になんらかの傾向があると感じたことはありませんか? 

私は私と係わり合いを持った人々、そしてその人たちが持っている背景に共通点と独特の雰囲気があることに気がつきました。そして自分から関係が疎遠になってしまった方々がどうなっているかということについてもある傾向が見られるということを感じています。

自分と係わり合いを持つ人は全くの偶然ではなく、その人がもっている雰囲気がその人にあう人を引き付けているように思われます。

小学校から知っている人のその後をたどっていくと不思議なことがあります。一緒に生活していたときは本当にいい人で仲がよかったのに、後で聞いてみると悪の道に入ってしまったという驚くことがあります。

ある人を取り巻いている環境はその人独自のものであり、ある時には悪の環境をみずから引き付けてしまうことも起こります。

自分が「なんとなく」という状態は自分の持っている雰囲気がそれに会う環境と関係を結ぼうとしている状態にあります。

つまり男女の自然な出会いを考えると、出会った相手は自分の持っている雰囲気・背景が引き付けた結果と見ることができます。自分のもっている人格・雰囲気のレベルによってそれに相応するレベルの相手と出会うということであり、もし自然でいい出会いを望むならばはっきりした意志を持って自分自身を変えることに専念すべきということです。

それが難しいと思う場合は、自分の力でというのはやめて、すばらしい人格をもつ人を通して紹介してもらったほうがいいのかも知れません。
 
いい出会いを求めいろんな人と付き合ってみたというパターンは、自分の品格を自分も知らないうちに落としていくことになり、いい結果に落ち着くこと(ご本人は気がついてはいないかもしれませんが)はありません。 集中するところが間違っているためです。ただし…ここで取り上げたことはまだ私の直感の段階で私が感じる話であり、必ずしも正しいとは限りませんのであしからず。

それでは、出会いの状態を考えてみたいと思います。「惹かれた」という状態は相手が最高の状態にあるときではないでしょうか? 

まさか、一番さえないときに惹かれるということはないですよね。 若いときはまだまだ精神的な熟成度が足りないのでとかく外見に関心がいきます。デートのときはとかく服装・環境などに気を配り自分がもっともいい状態でいられるように注意します。

つまり二人が出会っている時とはもっとも人工的に作られたシチュエーションであり、「ハイ」になっている私は日常とはかけ離れた状態であるということです。

また、環境作りは大切で、その状態から本来の自分を「オブラート」に包みながら(ショックを与えずにね)相手に渡すことができます。

そしてお互いがお互いに「実は寂しい」ということが確認できたとき(それは探りあいのゲームですね)により深い仲になるということになります。

客観的に見るとこれが一般の「恋」「恋愛」なのだということになりますが、よく気をつけないと問題がいくつもでてきそうです。

ここで味わう体験は一時的なものであり、「愛」への入り口にしか過ぎず、これから「愛」に発展するためには越えなければならないそれぞれの課題があり、実際にそれを越えた方々が結婚し今も生活し続けているのだと思います。

ある人はこれが「愛」ではないということを知っており、意図的に毎回毎回その「ハイ」の状態をもとめて「恋する乙女/男」になろうとします。それは脳内麻薬に溺れた中毒状態に近いものがあります。 そしてそのいい気分を味わうに必要なシチュエーションを作り出すためのツールなどを「大人の恋の・・・」などというんでしょうか? 確かに酒・タバコ・ギャンブルなど私たちを「ハイ」にしてくれるお金のかかるツールは成人になってからということになりますが・・・

「愛」と「恋」を混同している人が恋愛を求めている場合、だまされ傷つきやすく、気をつけたいものです。

最後に、「たくさん恋をして、そして自分にもっともふさわしい人と出会う」という考え方についてふれてみます。


なぜたくさん恋を経験しなければならないかというと・・・恋愛とはということがわからないのでそれを理解するため。 「男」「女」がどういう存在かを理解するため。 自分の愛の懐を広くするため。など考えられます。

「たくさん恋をして・・・」は「恋」という通常とは違う特別な感情にひたるということであり、脳内にはPEAなどの脳内麻薬が分泌する状態です。そしてその快感は特別なだけにハマりやすい可能性を持っているようです。「依存性」と言う言葉が最近取り上げられますが依存体質な人は恋愛依存に陥るかもしれません。それは「恋の刺激」の喜びと強烈な「寂しさ」の不安の感情を行ったり来たりします。それなのに、たくさん恋をする必要があるんでしょうか・・・・

もちろん「恋」という感情は人を生き生きとさせるなど、人生において素晴らしい効果をもたらしますのでそれを否定はしません。しかし「たくさん」には少し問題があるような気がするのです。

異性との出会いと恋愛感情からくる深い関係への発展。それらをもつとその相手との記憶が自分の心に残ります。そしてそれが特に一番初めであったならば、もっとも強烈に焼きついていることでしょう。傷ついたことばかりが残るわけでなく、もっとも美しく良かったこともしっかり残ります。なかには「ちょっと自分がわるかったな」という悔いが残るものもあるかもしれません。その記憶が様々の異性によっていくつも重ねられるとどうなるんでしょうか。

本当の愛情を育むためにはある期間の忍耐が必要になってくるのですが、容易に思い出や悔いを引き出してそれに浸り、目の前の人を愛することをやめ「逃げ」てしまいやすいのかもしれません。そしてその人の基本的な人格の形成に障害となりかねない状態になっていくのかもしれません。(本人は気がつかないかもしれませんが)

自分が本当に「愛する」ということに対して逃げ始めるようになるのかも。

「愛」→永遠、絶対。この人間の基本的概念が自分の中に持てなくなっていく、それは言い換えれば純粋さをしだいに失ってしまうことになるのではないでしょうか。

多くの人はこの繰り返しの失敗にやがて気づき、ある程度の妥協点を見出すようになります。そしてようやく見つけたその相手、そのときの相手はすでに「絶対」ではなくなっているのでは?

過去の彼氏彼女の写真を捨てられない人も・・・・結構いるでしょうねー。

恋愛とはということがわからないのでそれを理解するため。 「男」「女」がどういう存在かを理解するため。 自分の愛の懐を広くするため。

これって本当は自分が幸せになるために必要なことだったと思うのですが・・・その経験を重ねた結果本当に幸せになる人がどれだけいるんでしょうね?
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書いてる人

現代人の恋愛事情に根ざしているものは、国と時代を超えて語り継がれてきた古典的な恋愛論だと思います。
学生時代は心理学を含めて学術的に恋愛を分析する機会が多かったと思います。こんな私も結婚して既婚者となりました。結婚する前にすべき思考が暗礁に乗り上げるように恋愛論、結婚論について書き進めています。純でガチガチの恋愛ブログです。

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