子供がかわいくない母親 愛されずに育てられた母親
母親の子供への愛情について議論するため、家庭の中で父・母・子の果たしていく役割について考えていきます。
人間にはそれぞれの心に「愛情の貯蔵庫」をもっています。人間関係を通してその貯蔵庫から愛を受けたり与えたりするのですが、その貯蔵庫が空になると与えることができなくなります。そして貯蔵庫があふれるほどいっぱいになると、自然と自分で与えることができるようになります。そしてあまり入っていないのに与えようとすると不自然でぎこちないものになってしまいます。そして乳児・幼児と成長していく過程において子供は、親、とくに母親から無条件の愛をふんだんに受けなければなりません。
その愛情の条件は、子供の存在すべてを「受け入れた」という要件を満たすものとなります。乳児を育てるのは大変で、いつも理由なく泣き、寝たいときに寝ず、授乳させようとしても飲まず、母親が乳児に対し「こうしてほしい」という要求を完全に否定して要求し続けます。そして母親は乳児の汚物を連続的に処理していかねばなりません。
これは寝たいときに寝られず、食べたいときに食べられずの完全自己否定の世界です。
この世界で役割を果たすことができるのは、職業的に介護に就く人か、対象への愛を本当に持っていなければできない話です。
母親自身が子供のとき、その母親からの十分な愛情を受けていれば、子供の誕生と共に自動的・自発的に無条件の愛が発動し、子供の要求に対しそれを喜んで受け入れて厳しい子育てを乗り越えていくことができるでしょう。
しかし、問題は母親から無条件の愛を子供のときに十分に受けていない女が母親となったときに普通では考えられないことになってしまいます。
例えば、愛されずに育った大人が親となったとき、生まれた赤ちゃんがかわいくないない、愛情がわかない、スキンシップをすることができない、泣いている赤ちゃんになにをしていいかわからずおろおろする、などあきらかな現象が生じます。
普通は「赤ちゃんかわいいねー」で、みんな赤ちゃんをかわいがり、抱いたりします。ところが、愛されずに育てられた母親は周囲の人々と同様の感情がわかず、子供をかわいいと感じないことに気づいている自分を感じ、その感情が罪であることを自覚するせいか…ぎこちない表情と気持ちを隠しつつも自分にショックをうける毎日を過ごします。時に起こりうる悲劇として、不安定な感情から赤ちゃんに暴行を加えることも始まるかもしれません。子供の虐待は、愛されて育った者には理解しがたい特異な世界なのです。
ところで、生まれた赤ちゃんがかわいくないと感じる母親の存在数は少なくないと思われます。同時に、子供を愛せない自分を表現する場が希少なため、大きなストレスとなり、精神的に異常をきたしている人も多いのではと思います。
育児放棄や子供の虐待による社会問題は気の持ちようで解決する問題ではないため、その事実が生じたときの初動がいかに大切かということです。子供を愛そうと努力しても、自身が愛されずに育てられた以上、自身の力で子供を愛する力を身につけることが困難だからです。
そして社会的にそのような人を受け入れてあげるという環境が少ないのも問題です。視点を変えれば、これは子供を愛せない母親の問題ではなく、むしろその母親は、自分の母親による被害者とも言えるでしょう。
そして不幸なことは「自分は愛されてきた」ということを私たちは防衛的にそのように思い込んでいるということです。「自分は愛されてなかったんだ」ということに気づくのはなかなか簡単ではありません。自分は母親になれると漠然と思っている人がほとんどではないでしょうか。
今の風潮で果たして母親になれる人がどれくらいいるものか、私は疑問をもっています。なにしろ、母親という立場には立てないものの、私は愛情が素直にわいてこなかったうちの一人ですから。
ここで取り上げた愛の器に愛が入っていないので愛することは難しい、という見方の他に、愛はもともと私たちの中に存在していて、それを想起できないでいるために問題が起こっているのであり、私達は愛する能力を元々もっている、という見方もありますのであまりこのエッセイだけを読んで悲観的になる必要は全くありません。もっときっと愛する事が出来る、とポジティブに考えたほうが健康的です。
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