「一人にして欲しい」と「話を聞いて欲しい」
人生にはトラブルがつき物ですが、そのトラブルで凹んでしまったときの対処の仕方も人によって異なります。「一人にしてほしい」と一人でいたがる時。「だれかに話を聞いてほしい」と相談したくなる時。そして助言を受けたい時など。心理的には一度否定されて傷ついた自分を、「あるがままの自分」として自分や他人にもう一度認め受け入れてもらったというなんらかの心の作業をして、それから立ち直りの方向へと向かっていくのでしょう。育ってきた環境によって「あるがままの自分」を充分に受け入れられなかったような場合は、それを埋めるにたる自分の何らかの「自己評価」をしているものですが、それをもう一度評価しなおすという事が必要になってくるのかもしれません。
環境的に外に意識が向き、それによる「自己評価」・・・例えば自分の持っている実力や位置・・・をしている場合は、それをもう一度他人に認めてもらうようなやり方で回復することでしょうし、内に意識が向いている場合は、周りの人と気持ちを共有しあい、慰めあうことが中心となって回復するのだろうと思います。
それを念頭において考えてみると男中心社会の中にあっては凹んでいる時の対処法の違いもある傾向がみられるのではと思います。その事について取り上げてみます。
女がトラブルに巻き込まれて凹んでいるときには側にいてくれて「受け入れ」てくれて「同意」してくれて「一致」してくれる人を求めることが多いのではないでしょうか。
トラブルに落ちた経緯、そしてそのときに感じたこと、そして今どう思っているのか・・・・などを聞いてくれる人、受け入れてくれる人、慰めの言葉をかけてくれる人、励ましの言葉をかけてくれる人などが必要になってきます。そのときの女は「〜してほしい」というモードに入っているために、それだけ誰かの小さな一言でも敏感にありがたく感じるようになっています。誰かの言葉に飢えている状態です。言葉を求めて女のほうが歌や詩に対して敏感ですね。
それでは男はどうでしょうか。男がトラブルに落ちて凹んでいる状態のときには、自分の独立性、独自性が維持的できてない状態であり、それを回復する事ができるきっかけを望んでいます。もちろん側にいて「受け入れ」てくれて「同意」してくれ・・・は望むところはあるのでしょうが、それ以上に 外向きのもので「否定された自己」を回復してくれる人を求めるところがあると思います。
男同士の会話ではもちろんトラブルの経過などを聞くことはしますが、そこにどう感じたとかの心情を話したり、それに「同意」して「一致」するような会話、また「慰めの言葉」などは量的にあまり入ってきません。同じ年代の同性から慰められるという行為は男として主導権を渡すことまたは「弱み」を見せること(つまりかっこ悪いということね)になりあまり気持ちいのいいものではないようです。もちろん年配の人から慰められることは自然なのでそれを気分悪くは思いませんが。
そしてどちらかというと直接の解決の方法についてお互い考えます。そして「慰め」よりは「励まし」の言葉をかけます。「励まし」は相手の独立性を認め、それを強化してくれるのです。女から見ると、男同士の会話は相手を分断しているようにも見えますが、それは相手の男の独立性とその強化の作業と見る事ができるのです。 (最近は「男の女化」もよく言われることで必ずしも当てはまらなくなっていることもよく知っています^^; )
さて、これら上記のことはある程度の傾向について取り扱っていますが、どちらもそれぞれ両方の面が必要ですよね。どちらかが欠ければやはり人格に問題が出るでしょうしね。 だからこそお互いを必要とするのでしょうね。ところがあまり相手の傾向を知らないと、上記のような違いなどによってお互いにぶつかってしまうことが考えられないでしょうか。
これは多分環境の中で培われてきた習性・習慣なのかもしれません。今まで白味噌の味噌汁しか飲まなかった人が突然赤みその味噌汁を飲むということに対して簡単に受け入れることができるでしょうか。
相手を思いやり、まず先に考えるということを自発的に考えないでは、かならず習慣性があらわれますので、頭でわかっていても失敗するのです。「自発的に考える」という訓練をするのは大変でありストレスが溜まります。それゆえにそれを乗り越えさせることのできる「恋愛感情」というものがあるのではないでしょうか。
「恋愛感情」は自然と相手のことをまず思いやる方向へ向かいます。だから何もかもうまく行くのです。ところが「恋愛感情」が落ち着いてくると今度は自分の今までの習慣性が発揮されるために相手と自分の違いがより露になり、ぶつかりも多くなってしまい「なぜこんなことに」という思いをするのではないでしょうか。
「恋愛感情」を持っているときは自分を犠牲にして「思いやり」を優先させている時です。この感覚を忘れないで、やがて自分で自発的に「思いやり」を発動させて自分の習慣性を克服しなければならない時が来たときに、思い出すということが必要なのではないでしょうか。
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