体罰の定義
体罰に関する議論を進めてみて感じること
私は、体罰や虐待をバリバリと受けて体育会系の中で育った部類です。あまり体罰自体を完全に否定しないで、という気持ちも持ったりしていました。
色々と身の回りの人や多くよく目にする体罰に関しての主張をまとめてみますと
1.体罰は愛があるならばいいのではないか。
2.体罰は限定的に行っても良い。
3.体罰は絶対にいけない。
1を支持する人は大部多いのではないかと思います。しかし、よくよく考えてみると「愛のある体罰」というものは文字だけの話であり、実際には個人的な感情がかなり含まれているためにそんなことはありえない、というのが実感です。
また、「愛」を伝えることができるならば、わざわざ暴力に訴えなくともそれを回避する方法があればそれをとるに越したことはないということになります。
3の立場の人も最近は増えていると思います。しかしながら、それは単に感情論や自分の育児に対する無責任を正当化するためにそれを支持している人もおり、それが教師に対する圧力ともなり、その反動で体罰は限定的によいとする2を支持する人も出てきてしまうのではと思います。しかしながら、その真の意味を理解してみると、できるだけ体罰に走ることを回避する方法をとるべきであるということが分かってきます。
2の立場をとる人はおそらく、保守的な立場の人だろうと思われます。つまり、社会の秩序や公共の利益ということを第一に考え、責任を持とうとする立場の人です。
3の立場をもし仮にすべての人がとるならば、社会的な秩序が成り立たなくなる可能性-例えば少年犯罪に対する刑法の適用の反対につながり、悪質な知能犯を誘発する-も残っており、それについての責任は3の立場をとり続ける人達にはその点についての責任問題については「ない」のが現状ではないでしょうか。
全体のバランスを考えてみる時にやはり今のところ、2の立場が正統的な主張とならざるを得ないところがあります。それを支持するのが少年法の改正とその年齢の引き下げでしょう。子供への体罰は大人へは行わないもの、という見方をすれば、今度は子供の犯罪は大人の基準で裁くというような見方へもつながりかねない所です。
3の立場が2の立場を越える為には、やはり「体罰に代わるしつけのアイディア集」などの実践的な面での主張が量的になされなければならないと思います。
「体罰はいけない」のならばどうしたら良いのか、体罰に変わる代案。その点についてしっかりとした実用的なものについてのマニュアルやその広報がなければならないと思います。それなくしては多くの体罰賛成論者は「感情論」「理想論」で片付けてしまうと思います。
経済的に厳しく、夫婦が共働きで、子どもが活発な者ばかりが三人、家に帰って来ればお互いがつかれきっているのに子ども達がどんどん家を散らかし騒いで言うことを聞かない。奥さんは元々きれい好きなのに現状はママならず。ややヒステリック気味になってしまっているのに旦那はそれを構う余裕もなくぐったりしている。子どもの歯磨き、お風呂、好き嫌いなく食べさせなければならない、中々夜は寝ないで騒いでいるのを近所から迷惑がられている声を聞きながらなんとか寝かしつけなければならない・・・
こんな時に速攻で子ども達に言うことを聞かせたくなる「体罰」を使いたくなる誘惑にかられるのはどうしようもない所ではないですか?使わないといつまでたってもこの混沌から抜け出せず、苛立ちばかりが募ってきそうです。どうやってこの状態から子ども達の自主性ばかりを重んじて家庭を運営していくことができますか?共働きの疲労度は大変なものですよね。
すべての体罰を反対してしまうならば、このような混沌とした家庭にも救いを与えるような代案をぜひ提案してほしいとなってきます。このような家庭に「体罰は絶対行ってはいけません!」という強い否定を与えるだけではその夫婦にとってはなんの救いもないのではないのでしょうか?
現時点では私の実感としてはその手のものがまったくないとはいえないのですが、その点で量的に乏しい状態であると感じます。1の主張をする人が多い現実を見るとその現実がそれを証明しているように思います。3がちゃんと浸透すれば1の主張は少なくなっていくはずです。
私的には3の立場をとりたいところですが、今後が期待されますし、ぜひ多くの研究をしていって欲しいと願います。もし、3に責任を持つならばただ「感じるままに」という観念論や口伝えの一時的な付け焼刃で終わってしまうのではなく、形に残るようにその点の努力を怠らないようにしなければならないと思うのです。
愛があるならば体罰はいいのではの罠
ある体罰の体験談から。校内で暴力もあったりして結構荒れた校内暴力が盛んだった時、ついにクラスの中で暴れた生徒に対して叩くという行為をしてしまったそうです。それはその生徒のことを真剣に思っての行為でした。ずっと後にこのクラスでの集まりがあって、その叩かれた生徒も大きくなり、その時を思い出して感謝の気持ちをもっていたようです。「先生が一番真剣に自分のことを考えてくれた」「一人の大人としての対応をしてくれた」と感謝の言葉を述べてくれました・・・・
この話はよく聞く話です。そしてこの話は美談として残るわけですが、そこに見逃される問題点もあるわけです。では果たしてこの時の先生の行為が本当に生徒のことを思って行われたのでしょうか。先生にとっての体罰の定義とはいったいどんなものだったんでしょう……?
考えてみるとこの叩く・殴るなどの暴力行為は大人と大人、または一人の人間と人間との関係の中ではおきません。相手に教える、教えられる立場とかのどちらかが上でどちらかが下というような関係の中で発生する事が多いと思います。
つまり叩く・殴る行為というのは、教える立場の先生が自分の立場を利用して、濫用して行われた行為なのでは?という疑問が出てきます。そこには先生として立場がないという他からの目や、先生としてこうでなければならない、といった縛られたものからくる切羽詰ったところからくる焦りや個人的怒りなどの感情が含まれている可能性が考えられないでしょうか。
これが先生と生徒という関係でなければこんな叩く・殴るという行為は生じませんよね。そして教師は自分の立場を濫用したという自覚もあまりないことでしょうし、他者から見てもその事を正当化して見ることになるでしょう。
そして後で振り返ってみると「ああ、あの先生は本当に自分の事を真剣に思ってくれたんだな」という感謝の気持ちと他の生徒達はそれを目の当たりにして「愛があるなら体罰というのはありなんだな」という極自然な認識とその伝播がなされるはずです。
ところがここで確認せねばならないのは、殴る行為をした教師に対し、果たしてその生徒に一人の人間として同じレベルに立って向き合ったのかという点にあります。定義を共有していたかという部分です。
教師と生徒という枠を外してこの生徒を一人の人間として尊重したのかどうかという点についてはほとんど見過ごされているのではないでしょうか。もし一人の人間として向き合ったならば、そこには恐らく体罰や殴るという行為に代わる別の行動がなされていたのかもしれません。それが本当の「一人の大人として」の姿でしょうね。
叩く・殴る方にはいつも「悪かった」という後悔がつきます。しかし、その行為についてよく検討しないでそのまま、あいまいにしてそのとられた行為をポジティブに解釈しすぎ、行為をとったその立場や位置が正当化されてしまったという部分がはいったまま見逃されてしまい、そして一般に人々は単純に「愛があるならば体罰は」という結論を持つことで終わってしまっているのです。
多くの人はそこで罠にはまっています。
本当の意味での人を尊重することをやめて職権や立場を濫用されていることに気がついていません。こうしてここに暴力の正当化がなされて「愛があるならば体罰は」という言葉にのっかって「暴力行為によって人を支配する事」が伝播されているのが実状なのではないでしょうか。
日本人に特に欠けている文化は「個」でしょうね。それがないのでこのような問題が生じているのではと思います。おそらく「愛があるならば体罰は」という言い方は「個」が発達した所では少ないのではと自分の実感でそう思いますがどうでしょうか?
ややこれは乱暴な説ですが、今後も色々と考えてみる余地はあるでしょうね。
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