体罰は無条件に暴力か?

2016年6月14日火曜日 体罰 暴力

体罰問題について再び考えてみる

体罰問題についていくつか取り上げたのですが、その後色々と考えていくうちにどうも体罰をしないという原則の下できるだけ回避すべき道を研究しとるべき方法をとらねばならないということに至ってきました。

一番よく体罰賛成の問題で取り上げられる話が、熱心な先生がいてその先生が言うことを聞かない生徒を殴ったらその生徒が「はっ」として我に返り、先生がいかに自分のことを心配してくれているかを知って改心したという話でしょう。

この体験談を色々と見ていくうちに気がついたのは、その生徒が改心したのは先生が自分の事を真剣に心配してくれている姿に感動したのであって、先生が殴ったことに感動したのではないということです。つまり、「殴る」という行動をとらなくとも代わりに何か生徒に先生の真剣さを伝えることのできる別のやり方があれば、わざわざ「殴る」という行為をとることはない、ということです。

つまり、この体験談が体罰の正当化をしてくれるものとはならないということです。

このことを指摘してくれる意見はあるわけですが、では代わりにどのような方法がとられたというのでしょうか。その点について私達はもっと議論し、そしてお互いのスキルを高めていかなければならないはずなのにその点が実に遅れてしまっているというのが現状であり、それゆえに子供を暴力で言うことを聞かせようとする安易な方向へ流れてしまっているのを食い止める事が出来ないでいるのではないでしょうか。その点で日本はまだまだ遅れているのでしょうね。

もうちょっと続けます。

体罰とは何を指すのか?
体罰とは一体何を指すのでしょうか? 親または教師が子の心身の成長にとってあるいは他人や社会にとってマイナスと思われる振舞いが過ちであることを自覚させ悔い改めさせる目的で子供の体に痛みを与えること、と考えられるのではないでしょうか。

ところがこの体罰はあるときには見方によってある時には「虐待」ある時には「しつけ」、そしてある時には「暴力」と受け取り方によって色んな見方をされるもので、なかなか難しいところです。

しかも上記のように定義してしまったところでその定義に従って行った結果がどのようになるのかは体罰を受けた人によって異なります。ある人はしっかりとその意味を理解できるかもしれませんし、ある人はショックを受けてダメージを受けるかもしれません。また与える方にしても手順に従っていても個人的感情の中でついついと必要以上に力が入ってしまうことも起こりえます。そのように考えていくと体罰というもの、実に面倒なことであり、仮に行ったとしてもそれのために大変な言い訳をしなければならず、大変面倒なものであり、そして本当に体罰が効果があるのかについて考えた時、まったくそれは疑問だといわざるを得ません。

そして体罰行う者が果たして完全に私情を持たないでそのようなことが出来るものなのでしょうか。体罰を行うに当たってはやはり私情がそこにからみ行う手の力にも必要以上についついと力がはいってしまわないのでしょうか?私情がそこに含まれる時、それは体罰を越えて暴力、リンチへと変化する可能性を持っているわけです。そして多くの人が体罰を行った結果、「悪かったな」「力が入りすぎたかな」という思いに駆られているのではないでしょうか?それはすでに子供を不当に取りあつかったということになるのではないでしょうか。体罰と暴力は紙一重であり、実際の所は体罰を行う人の心理的・精神的問題を抱えたところから発する暴力に近いのではないのでは?その問題について次は考えて見たいと思います。

体罰と暴力は同じか?暴力の性質から考えてみる
「暴力」というものは人間の本来持っている攻撃性によって突発的に引き起こされる類のものではなく、それを振るう相手というものが振るう者によって選択されて行われる意志的なものである、と考えられます。

そのために「暴力」というものは弱者に向けて行われる性格が強く、その対象となりやすいのが女であったり子供であったりするわけです。「暴力」の相手を自分と同じあるいは上のレベルの人に向けたりはしません。それ故に「暴力」というものは悪質なものである、ということです。(しかしながら弱者のみに行わない性格の暴力もあるようですが・・・これはまた後に考えて見たいと思います)

そのために体罰という名の暴力には実に巧妙な悪質なものが含まれているということになるでしょうね。つまり自分の心の中のやりきれない不満を相手をコントロールしやすい弱者を選んで自己中心的に紛らわそうとする行為という事ができると思います。弱者にぶつけることは実に卑怯な行為ですが、それが実に日常に自然にあふれているということであり、気をつけなければいけないことです。家庭内での暴力というものが共依存にすぐに結びつくとは言えないということも理解できる話です。

私の知り合いで、子供には絶対体罰をしない素晴らしい人格の夫婦がいらっしゃいますが、その子供達を見ているとやっぱりちょっとした「暴力」、つまりケンカはありますよね。どうしてそんなことを覚えたのだろうと不思議に思いましたよね。隠れて親が体罰を与えてた、といわれる方もいるかもしれませんが、私は約一ヶ月寝食を共にしたのでそれがなかったし家庭の中で怒鳴るというような事も一切なかったのを覚えています。

暴力というものは、自分の中の人間として存在を「認められている」という強い欲求が充たされない不満や不安などのフラストレーションを発散させるために、短時間で相手をコントロールすることができるという事も手伝って、簡単に使える手段です。

コントロールすることによって「認められている」という不満を一時的に解消する事ができるわけです。

この暴力の話、大変興味深く、ドメスティックバイオレンスの問題にも絡みもっと深く追求してみたい所ですが、体罰についてここでは考えているために別の機会にまわします。

前から話を続けているのですが、どうも体罰というもの、普通の環境ではあまり使ってはいけないもの、という具合になっています。しかし実情ではかなり学校でも家庭でも隠れて行われており、特に学校で使われる場合、それは陰湿なものになっているようです。

暴力の根本的な原因は「自分の存在を認められていない」という不満から起こっているということを考えてみると、体罰の中にそれを与えるものの動機がまぎれていれば、それは暴力となりえるわけです。そしてその暴力は通常その根本的なものが解決されない限り繰り返され、そしてエスカレートしてしまうものです。なぜならば「叩く」という行為がやがて相手を支配できなくなれば更にもっとその「叩く」行為が別の強い形になりかねないからです。

体罰と暴力は同じか? それはそれを与える人が静かに自分の心に問うてみたらわかることでしょう。それは実に内向的なものですよね。果たしてそれを完璧に別に分ける事ができる心を持った人がいるのでしょうか?
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書いてる人

現代人の恋愛事情に根ざしているものは、国と時代を超えて語り継がれてきた古典的な恋愛論だと思います。
学生時代は心理学を含めて学術的に恋愛を分析する機会が多かったと思います。こんな私も結婚して既婚者となりました。結婚する前にすべき思考が暗礁に乗り上げるように恋愛論、結婚論について書き進めています。純でガチガチの恋愛ブログです。

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