体罰と子供の情操教育
私が小学校2年生だったころ、どこからか子犬が迷い込んできたのでウチにつれて帰った時の話です。可愛い子犬だったので自分の庭で世話をしようとしたのですが、父親はどうも気に入らなかったようでそのような犬は飼えないとのこと。まぁ確かに以前飼えなくなって犬を山に捨てに行った事がありました。そこでその子犬を遠くへ連れて行き、置き去りにして帰って来ました。それはそのままで終わったのです。特にどうということもありません。
ところが夕方母親が帰って来てその子犬の話を聞いたときに、その犬ことについて「かわいそうにね」というコメントをしたのでした。その時に自分の脳裏には誰もいない山の中で食べるものもなく迷っている子犬の姿が浮かんできたのでした。そして自分は何ということをしたのだろうかという後悔の気持ちが突然湧いてきて悲しくなり「わぁ〜ん」と泣き出してしまったのでした。
子供の情緒を育てるのに親がどのようにガイドするかは大切になってくるようです。もしここで母親が別のガイド、例えば「自然の中で今頃のびのび暮らしているんだろうね〜、自然が一番(わはは)」など、をしていたら私にあのような感情は湧き上がりませんでしたよね。母親は自分の気持ちを素直に表現しただけなのですが、それが子供に「かわいそうなことをして。お前はなんと悪いことをしてしまったのか。今頃子犬はおなかすかせて鳴いているぞ」というメッセージとなってしまったのです。
さて、前回取り上げた純粋な「体罰」に対する取り扱いも気をつける必要があります。「体罰」、または主観的に「暴力と思われるもの」に対する反発心を感じる人が、目の前に起こっている「体罰」に対して「なんて酷いことを!」「おお、かわいそうに!」と感情をむき出しにした場合どうなるでしょうか。
一回の「ゲンコツ」、「おしりたたき」からくる子供の反応は「びっくり」「痛い」そして次に「なぜ?」という反応が来るのではと思いますが、その「なぜ?」に対する回答をこの反発した人たちは与えることになるのではと思うのです。「ボクは今酷いことをされたんだ」「わたしは今かわいそうな立場なんだ」「(叩いた)この人は酷い〜」 まあ、これ故に「体罰」の本当の意味はないということになってしまうのですが^^;
そう、「体罰反対論」を感情的にとる人にとっては目の前で起こっている現象を体験的にも「効果的」ととることはありえないということになります。それゆえ、この問題は「経験」という見方から見ても平行線をたどることになります。くどいようですが^^
ところが、起こった「体罰」というものに対して悪意が全くなく、回りの反応も感情的「体罰反対論」のように過剰な反応をすることなく、「体罰」の原因を納得させることができる理由を与える事ができるならば「効果的」になるのではないでしょうか。特に命の問題、重大な損害が発生する公共での問題についてはどうしても「即効性」を求められる時があるのでは? ある方々のように念がこもった「カミナリ」でそれを教育する事が出来ればいいのですが・・・(ぜひ本にして伝えてください^^) もっとも簡単で合理的、そして仮に被害者が出てしまった場合、被害者が納得する形・・・なのは「体罰」なのです。
今まで「痛い」思いをしたことのない過保護の子供が自分の思い通りにならないことに腹を立てて他の子供に暴力を振るっていたとしたら・・・・ 「痛い」ということを知らずに自分の誤ちを正すことができるのでしょうか?
犯罪の低年齢化とともに少年法の見直し問題も出ています。もう取り返しのつかないことをしてしまった子供に対して・・・この間のニュースのこともありましたが・・・多くの人たちは出所についての不安を感じていましたねー。償いが足りないのではということです。 被害者の親御さんの中でも加害者の親と交流を持っているより良心的な人でも、今も心では納得できず「殺してやりたい」の気持ちを越えられないのが現実です。つまり、問題を感情論を抜きにしてシビアに現実を突き詰めると「体罰」賛成になるのが人々の心なのです。
う〜ん、なんか取り上げていると色々からんできて・・・整理がつかなくなってきますね。ちょっとこの展開は無理があって今ひとつかも^^;
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