永遠の愛って存在するのだろうか?
愛の定義をもう一度振り返ってみると、対象をかけがえのない相手と認め、一つになりたいという心の衝動とその表れとしたわけですが、この愛の対象が異性である場合を考えてみると、相手をかけがえのない相手として認める気持ちかつ一緒にいたいという気持ちと行為、これは永遠性・絶対的なものなのでしょうか。つまり、男と女の愛は永遠・絶対なんだろうか?ということについて考えてみます。まず、相手に対する愛が永遠・絶対でない場合とはどういうことかというと、言い換えるならば、相手に対する愛が一時的・相対的である、ということになります。
例えば、一時的な愛とはある時間が来るとその相手との愛が終了してしまうということになります。「そろそろ時間なんでこれでお別れです。はい、ありがとうございました。」ということになります。
でもこの時間が短い場合、例えば「マジソン郡の橋」みたいなこの手のこの時間限定の愛はどちらかというと、「愛」というよりは「恋」のほうに分類されたほうがいいと思います。
もうちょっと時間を延ばしてじゃあ3年くらいとしましょう。そうすれば「恋」も終了して落ち着いた深い人間関係になると思います。心から愛し合うことができたとして、じゃそれで時間が来たのでそれを打ち切ります、とできるものでしょうか?
もっとわかりやすいのは「死に別れ」です。もしこれを体験するならば、このトラウマを乗り越えるのは本当に大変なことでしょう。
つまり、男と女の愛は永遠であってほしいというのが人の愛に対する心からの願いということになるのでしょうか。
つぎに愛が相対的ならばどうか、ということについて考えます。もっと言い換えれば、相手をいつも他の相手と比較し比較されながら愛し愛されるということになります。
これはちょっと話を進めるとつらいことになるんですが、「今日のあなたはTさんよりYさんより、Kさんよりいいね・・・」 ということになります。
これが肉体関係ならばなおさらでしょう。 現実問題は心の中でかなり打算的なものが入ってしまっていることもあり、つらいものがあるんですが、これを実際に口に出して言う人はどこにもいないでしょう。
なぜならばそれが本来は間違いであるということをみな心では知っているからです。
つまり相互において「世界中でだれよりも私はあなたを一番愛する」という世界が絶対的愛の世界になると思います。
ところで上述の定義のみでは一方的な押し付けの行動も「愛」として認められる可能性が出てきてしまいます。また「一緒になってくれなければここで死ぬ」といったような行動も「愛」になってしまいます。
確かにそれらも「愛」の一部です。しかしそれは一方的で押し付けたゆがんだ自己中心的「愛」という種類に分類されるにしか過ぎません。
それは「かけがえのない存在」として対象を認めるもののその動機は相手を高め本当の幸せに導くという動機ではなく、自分のなかの心の欠乏を埋めるための自己中心的動機から出発しているからです。
男女の愛も永遠・絶対的な性格もつならば、押し付けで相手を破滅に導く「愛」は本当の「愛」として呼べるものではないと思います。
人は心では男女の愛において永遠・絶対を願うというわけですが、それは他の人から言われてそれを「守らねばならない」と死守しようとするものでもないと思います。それは自分の心でしっかりと感じ、思うことであり、出来るだけ実践するべきものだと思います。
しかしながら現実においては結婚適齢期になるまでにそれぞれが自分が人を愛することにおいて十分な人格を持ち合わせているかと言えばそれはほとんど無理でしょう。そのような状態で結婚して果たして全てがうまく行くわけがないですね。恐らく多くの人が問題を抱えているので家庭内で悩み、この結婚は失敗だったのではないかと思うのではないかと思うのです。 愛は冷えてしまって結婚が形骸化してしまっているのにそれでも「この夫婦関係は死守せねばならない」とお互いを縛りつづけるものなのでしょうか。それとも一度しかない人生、もっと素敵な人と出会い素晴らしい人生を恋愛で全うしたほうがよいのでしょうか。その他いろんなオプションが考えられるでしょうが・・・(それについてはまた考えて見たいと思います)
どのような行動をするのかはそれぞれが自分の心に真摯に問い決定することだと思いますし、他者がそのためのヒントを提供することはあれ、その行動の結果をあれこれと判断したり裁いたりすることではないように思います(どのような結果になろうとも助けることはあれ、裁いたり後ろ指をさすことはしてはいけないと思います)。 ただ私たちの心は愛の永遠性・絶対性を信じ、自分は足りないけれどもそれを求め成長し続けるものだということでは言えるのではないでしょうか。
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